わさっきhb

大学(教育研究)とか ,親馬鹿とか,和歌山とか,とか,とか.

教育も,支配から調和へといかないものか

柔道から,話を見ていくことにします.

記事中に何度か「大外刈り」が現れるほか,その政策決定をしたとおぼしき政治家を叩く,はてブのコメントに,数多くのスターがついています.
しかし私はそれらと別のところを見て,心が沈みました.一つは,脳脊髄液減少症と診断された生徒のことです.もう一つ,記事末尾の解説にある「柔道、剣道、相撲からの選択だが、設備面などから柔道を選ぶケースが多い」にも,目が留まりました.後者は,柔道を選んだ各学校の責任(十分な安全を保証せずに授業を実施したこと)を問うことにもなりかねません.
この2点,いずれも別のところで読んだ記憶もあるのですが,なんとかならないものかと,思うのです.
後頭部を打ちやすい技を禁止することもさることながら,教育効果と安全面をともに高める方法が,思い浮かんでいます.授業で,技能以外の比重を高めることです.具体的には,個々の技とその掛け方・練習法について,しっかり時間をかけて,先生が話をすることです.ビデオ(今どきなら,DVDか,ネット動画ですかね)を観るのもいいでしょう*1
技だけではありませんね.「礼義(礼に始まり礼に終わる)」「形」「心技体」「柔よく剛を制す」,そして「柔道の危険性」についても,セレクトして,畳の上で先生が話すか,ここでもまた,ビデオを観るなりしても,良さそうです.
また別の,教育的配慮も思いつきます.柔道の授業の安全を確保するのに,生徒らを巻き込むことです.もちろん,払い腰や内股で投げて巻き込めということでは,ありません.
クラスに柔道部員あるいは柔道経験者がいるなら,先生が積極的に「使う」わけです.その生徒は,他の生徒から信頼や尊敬を得ることにもなります.いなければ,事前に養成するというのも一案ですが,学園ドラマならともかく,現実にはそこまでは難しいでしょうね.
そこまで思い巡らせてから,記事を読み直すと,気になることがあります.役割分担が明確なのです.不自然なくらいに明瞭なのです.生徒はみな初心者であるかのように.先生は「柔道はできる」けれども授業に不安を持っている人物であるかのように.校長は学習指導要領を守る象徴であるかのように*2.そして記事の外でも,目立つブコメは,現在の日本の教育だとか政治だとかを,外から見て,叩き,そのコメントを読む人を喜ばせているかのように.
先ほど書いた,「生徒らを巻き込む」というのは,先生や生徒やその他,既定の関係性を,作り替えることになります.これは学園ドラマとはまた別の意味で,望ましい構図を与えるように思います.一言でいうと「調和」です.
少々おどけて書くなら,「だ〜れがせいとかせんせいか♪」です.
しかしながら,体格は先生よりも大きくなっていく生徒に対して,先生が投げるなり,がっちり押さえ込むなりして,柔道は(そしてスポーツは)体格や腕力で決まるものではないという事実を,生徒らが学ぶ機会にもなってくれれば,というのも期待したいところです.そういえば,マスターキートンの,わりとはじめのほうに,レスリング部員に対し授業中,キートンパンクラチオンの技をかけるって話が,あったなあ….


とかいろいろ考えていた同じ日の晩に,次の記事を読みました.

前編と合わせて,米国の算数・数学教育に焦点を当てています.コモン・コアのカリキュラムにリンクが張られていて…ああ,今年2月6月に目を通した,"Common Core State Standards"のことですか.
記事末尾の「日本の教育」は,読者向けのポーズのようなものですかね.一応推測として,著者・上杉周作氏は,『The Teaching Gap: Best Ideas from the World's Teachers for Improving Education in the Classroom』,『日本の算数・数学教育に学べ―米国が注目するjugyou kenkyuu』のいずれかを読んでいて,その上で米国の教育改革に関心を持っているものと理解しています.もし仮に,それらを読んでいなければ,ブームに乗っかったエンジニアでしかありません.
とはいうものの,それら2冊の本が本当に正しいのか,日米の教育の“現状”を,的確に書き表したものかというと,そこにも疑いの目を向けるべきでしょう.90年代に,米独は100ずつ,日本は50の教室を無作為抽出し,ビデオに撮った上での比較です.努力をしているアメリカの先生と,向上心を持たない日本の先生とを持ってきて,授業を比較したら,どう見ても日本の負けです.
「欧米式はダメ,日本式でいい」というのも,短絡的です.
本から私が読み取ったのは,「支配の欧米,調和の日本」が,学校教育にも当てはまりそうだということです.柔道で書いたのと同様に,典型的なアメリカとドイツの授業は,先生と生徒,解く人と解かれる対象など,それぞれに明確な役割が見られます.
日本も実際のところ,先生と生徒の区別はあります.最もわかりやすいのは,授業開始時に起立礼をするところでしょう.ですが見聞きする限り,授業の中でときには,そのバリアがなくなっています.算数であれば,ある問題を解けるようになった子は,先生役になって,解けない子に教える,という話があります.また「作問」を教師が吸い上げて,児童が作ったユニークな文章題を公開したり,翌年以降,その単元を学ぶ児童らに提示したりするのは,文章題が「解かれる対象」であるだけでなく,児童らが「創るもの」となることを意味します.授業実演後の会議(検討会,協議会)では「授業を演じた教師」ではなく「授業」に焦点を当てていることも,「調和の日本」を端的に指摘したものと言っていいでしょう.
米国にそういった事例がないとは,ここでもまた言い切れませんが,コモン・コアのカリキュラムにターゲットを向け,ITを導入した「教育イノベーション」はおそらく,そういった「調和」の教育とは,そりが合わないだろうなとも思っています.そこから透けて見える,教材や出題は,学習者らにとって「克服されるべきもの」となるのです.


「支配の欧米,調和の日本」という,物の見方を知ったのは,受験生のころです.センター試験の準備で読んだ,国語の参考書にありました.ぼんやりとした記憶です.
Webで検索してみると,まあいろいろありますね….


最後にですが問題です.

かけ算の順序論争に,「調和」はあるのでしょうか?

さっそくですが回答です.次の内容が,「調和」を最もよく表したものだと,思っています.

乗法の場面、「1ふくろにミカンが3こずつ入っています。5ふくろでは、ミカンは何こでしょう。」は、3×5と立式される。立式は、「1つ分の数×いくつ分=全体の数」とまとめられ、それぞれ被乗数、乗数という。ところで、「オリンピックの400メートルリレー」や「このDVDは16倍速で記録できる」、「xのk倍は」の式は、どのように表わされるであろうか。それぞれ、一般的には「4×100mリレー」、「16×」、「kx」と表される。被乗数と乗数の位置が教科書の書き方と逆になっていることに気付くであろう。この例から分かるように、乗法では、数の位置ではなく、数が意味する内容に注目して、どの数が1つ分の数であるか、いくつ分はどの数かをしっかりと読み取ることが大切である。第2学年や第3学年では、読み取った数を、「1つ分の数×いくつ分=全体の数」と表現できることが重要であり、逆に、この立式ができているかで、数の読み取りができているかを判断できる。しかし、高学年になり、乗法では交換法則が成り立つことや外国での立式を知り、数の意味をしっかり理解できていれば、必ずしも第2学年で学んだ順序で立式することを強制しなくてもよい。
(『小学校指導法 算数 (教科指導法シリーズ)』pp.91-92)

自分なりの「調和」として,ぼくのかんがえた Multiplicative Structuresにリンクしておきます.

(リリース:2012-11-24 早朝)

*1:「安全」「時間をかける」と言えば,自動車教習所かなあ.技能教習にどれくらい時間をとり,それは卒業までに教習所にいる時間のうち何%になるかを,算出してみたいところです.

*2:「教育制度」を重視し「生徒」を軽視するかのように…のほうがいいでしょうか.とはいえどの校長も,「大事なのは,教育制度ですか? 目の前の生徒ですか?」と聞かれたら「生徒」と答えるはずであり,ここは,「学習指導要領」を隣接させて生徒と距離をとるように書いた,記者に不審の目を向けるべきなのでしょう.